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機動警察パトレイバー 篠原遊馬 永すぎた春の死に逝く道

hiroco浅間 2025-04-10 15:34 p站小说 4310 ℃
TV版完結当初、伊藤先生は雑誌のインタビューで「恋愛関係ということでいえば、どうにもならないでしょうね。この二人はもともと兄妹みたいなものですから。」と語りました。先生のお考えを理解し尊重もしますが、それでは『寿司屋の後藤』二貫目の「あのセリフ」が解せなくなります。
『寿司屋の後藤』はアーリーデイズ→パト1→パト2という世界観を踏襲した設定なので、本小説では、アーリーデイズの5~7話が描いた遊馬と野明を参考し、また『寿司屋の後藤』作中の「あのセリフ」を使って「疑似遊馬←野明」の設定になっておりますので、予めご了承ください。
*五十代野明の一人称に「私」を採用しております。
*五十代遊馬が進士を呼び捨てにするのは『寿司屋の後藤』準拠でございます。




ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ
また純粋やちひさな徳性のかずをうしなひ
わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
おまへはじぶんにさだめられたみちを
ひとりさびしく往かうとするか
信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
あかるくつめたい精進しやうじんのみちからかなしくつかれてゐて
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
おまへはひとりどこへ行かうとするのだ
(*おら おかないふうしてらべ)
何といふあきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら
またわたくしのどんなちひさな表情も
けつして見遁さないやうにしながら
——宮沢賢治『春と修羅ー無声慟哭』


恋する心の
歓びと悲しみの
さだめを知り
わたしは
ひと知れず
血を吐き続ける
——ハインリヒ・ハイネ『新春集ー血を吐く恋』



(一)
「野明、おい、野明」
眠気でぼんやりしている中、遠い所から遊馬の声がした。膝の上にある重みの正体は、ボストンバッグである。通勤時にはこれを背負っており、中には取り替えた篠原重工の作業着が入っていた。警察手帳と、本庁から発給された赴任マニュアルも入っていた。あたしのマウンテンバイクは車の後ろに入れられている。あたしが眠りにつく直前から、目を覚ましたさっきまで、車の小刻な揺れに合わせて、ベルがずっと鳴っていた。その音に加え、左手の運転席に座る遊馬の操縦音やエンジンの唸りが合わさり、合奏みたいになっていた。しかしいつの間にか音は消え、窓の閉まったフォルクスワーゲンタイプ2の中は、今ひときわ静まり返っている。頭を助手席のヘッドレストに持たせかけたまま、脳は夢見と現実の境界線をさまよっていた。聴覚が徐々にうつつにつながっていく中、聞こえるものは遊馬の呼吸しかなかった。
遊馬は東雲寮まであたしを連れてきてくれたに違いない。そろそろ目を覚まさないと。車を降りて「おやすみ」って言わないと。そう頭で考えていながら、夢の甘美さに瞼を上げることができなかった。このままここで、遊馬のそばでぐっすり眠りたい。
シートベルトを外す音の次に、布とシートが擦れる音が聞こえてきて、慣れすぎた匂いが鼻先をかすめた。遊馬の匂い。ぬくもりと吐息を感じ、額が何かに触れた。短い髪の毛……遊馬の前髪かな。「ちょっとむずむずするよ」と眉をひそめると、おもむろに温い気配が近づき、そのまま唇を優しく奪われた。

ああ、そうか。なんだ、そういうことか。瞼の奥が熱い。心の底から温かいものが湧き上がり、やがて胸を満たした。意識は風に吹かれた蝶のようにひらひらと舞い、果てしない感情の海の上を旋回していた。そこにある暗さと深さにいつもは眩暈がしたが、今は不思議と怖れはない。
ただ、なぜか涙がこぼれそうになった。久遠の彼方から感情の波涛が次々と押し寄せ、心を打つ。二課を離れてからずっとひっかかっていたものが、戻るべき場所に辿り着くようだ。瞼の奥に見える底なしの無明の世界、肌に染みついた言葉に出来ない混沌は、昔からの懐かしい友だちであり、今はあたし自身の一部ですらあった。その世界には視覚同調もなし、シミュレーションの街もなし、突然足元に現れるCGの子猫もない。とりとめのないデマや「ただの同僚です」と強調する必要もなく、食券も家族の催促も、従業員たちの悪意のない下ネタもない。本庁も、赴任マニュアルの定期テストもない。網膜投影装置や視覚操作モードもなく、金色の桜の代紋を外されたアルフォンスもない。未来もないし、過去もない。今のキスですらなくなっている。
そこにはすべてがあるけど、部分がない。部分がなければ、何かを何かに置き換える必要もない。消したり、代えたりする必要もない。これまでと同じように、自分で選択することなく、「すべて」に身を委ねていればいい。それが何よりも心強い。

「野明、おい、野明!」
遊馬の呼び声だ。今度は遠く感じることなく、切実な鋭さを帯びていた。あれ? と戸惑いながら目を開けた。視界にうっすらと水の膜がかかっていて、あたしは必死にまばたきをした。
鮮明になった視界の中で、遊馬は身を乗り出そうともせず、運転席にきちんと座り、ハンドルを片手にこっちを見ている。
「着いたぞ、さっきからずっと呼んでるけどなぁ。お前、いくら眠くたって助手席でぐっすりってのはねぇだろ。…ったく、無防備すぎ。俺じゃなかったらどうすんだ。一応女なんだから、少しは危機感持てっつーの」

***
ドンっと何かが頭にぶつかった。激しい揺れと眼前に広がる黒い空。感情の起伏がないCAの声が頭上から聞こえ、まだ重い瞼をぱっと開いた。
「ただいま気流の悪いところを通過中です。揺れましても飛行には影響ございません。シートベルトをしっかりお締め下さい」
シートの背もたれから頭を起こし、さっき頭をぶつけられてむっとした顔の隣の客に申し訳なく謝り、彼の表情から逃れようと前方に顔を向けると、前の席が視界に入った。ほっと一息ついて足を動かしてみると、狭いことで有名なエアバスA320のエコノミークラスのシートピッチには決してゆとりがない。その中に置かれた折り畳み式のフットレストは、飛行機に乗った瞬間、かつての愛機・アルフォンス三世の操縦席のペダルを思い出させた。
父の一周忌に参列して、故郷の苫小牧から東京に戻ってきた。父の生前に幾度か顔を合わせていた遊馬が、昨年の喪中の時と同じく、法事の際に律儀に香典袋に手紙を添えて送ってきた。それを見た母は、久しぶりに「篠原という男の子」のことを尋ねてきた。そのせいか、私は帰りの飛行機の中でうとうとしながら、若い頃の些細なことを次々と夢見始めた。夢の中にはいつも、当たり前のように遊馬がいた。
遊馬のvwタイプ2で眠り、キスされる夢を見たのは、もう三十年近く前、遊馬と私が警備開発課から篠原重工八王子工場に出向になった時のことだった。
今になって、あの車の中でのキスは当たり前にただの夢であることを、もうすっかり受け入れた。でも当時、あまりにもタイミングがよすぎて、色んな感触がリアルすぎたせいか、夢から目覚めた私は、ハンドルを片手に何事もなかったような表情の遊馬に、夢との落差が軽い衝撃だった。
遊馬の顔を見てたら涙が勝手にポロリと。遊馬はそんな私を見てうろたえている。背を向けて目を見せまいと腕で顔を隠し、その気まずい空気を何とかしようと思った。けれど、何か喋らないとと焦りながらも、すすり泣きが一向に止まらず、ようやく話せるようになった時は、「まつ毛が目に入った」などと下手な嘘をついてしまった。そうやって誤魔化そうとした自分に、どれだけこの男を好きになったのか思い知らされる。今さっき気づいたことにまた絶望して、更に胸の苦しみに涙が増すばかりでいる。そそくさと逃げるように遊馬のワーゲンバスを後にした。

泣き顔を必死に隠そうと足早に東雲寮に入ったが、そのまま寝室に戻って警備部のルームメートと対面することもできず、廊下の共用トイレの仕切りに隠れて涙が止まるのをじっと待っていた。
二課を離れ、アルフォンスが退役して以来、私はこの時ほどアルフォンスの操縦席にもう一度座りたいことを願ったことはない。今篠原重工業八王子工場のテスト倉庫に格納されているあの子は、姿形こそ私が「アルフォンス」と呼んでいたあの頃と変わっていない。けれども、今すぐ夜行バスで八王子に戻っても、篠原重工までマウンテンバイクで行っても、夜勤スタッフに頼んでもう一度乗せてくれたとしても、たぶん、いや、きっと何の意味もない。「アルフォンス」に乗ること自体は無意義になった。かつて私の筋肉と称え、血と肉とつながっている感覚だった存在が、今では私の身体から剝がされてしまっている。個室の便器に座ったまま、肌寒い孤独感が爪先から頭のてっぺんまで滲む。私はようやく、アルフォンスを永遠に失ったこと、同時に遊馬との関係も失ってしまったことを思い知らされた。
私はもう、レイバーが好きなだけの女の子として、生きていけない。

***

アナウンスされた機内の揺れが徐々に和らぎ、機体は安定し、シートベルトのランプが再び消えた。私は座席に背もたれたまま、前方の虚空をぼーっと眺めていた。
──こうやって頻繁に昔のことを思い出すのは、閉経の前兆かもしれない。
男性は死ぬ前に子孫を残したい衝動に駆られて一定の確率で勃起すると聞いたけど、私も亡き夫との間に子供ができなかったから、それと似たような原理で、忘れかけた昔の恋心を、肉体が本能的に思い出させようとしているのかな。

──たとえ遊馬との関係が「元同僚」以外の何者でないとしても。同僚時代も今も変わらず、遊馬とは特に仲がいいと思うけれど、プライベートで一度もそれ以上の関係になったことがない。決してなれないのだ。



(二)
私がふっとその事に気づいたのは、まだ二課にいた頃、休日に遊馬と、一度だけコンサートに行った日のことだった。①
遊馬との「デート」はいつも本物のそれとはほど遠かった。いつも遊馬が遅刻するので、遅れて入った映画は適当に観て、その後ファーストフード店で時間を潰す。最後は居酒屋で門限ぎりぎりまで飲むのが常だった。少し前にたまたま警察学校の同期からコンサートのチケットを二枚もらっていた私は、その後すぐに遊馬を誘っていた。コンサートの前の晩、ああまるで本物のデートみたい、とちょっとわくわくしたのを覚えている。早めに床に入ったのになかなか寝付けず、ようやく眠れたのは深夜過ぎだった。


朝早く目覚まし時計に起こされ、顔を洗って一番可愛いと思った私服に着替え、出掛けようとしたらどうしても寝癖が気になって、寝室に戻って鏡の前で髪を何度も押さえてみた。道端の立食屋で適当に朝ごはんを済ませ、道を渡ろうとしたら、一緒に信号待ちをしたお婆さんが道を尋ねてきた。いくら教えても分からなそうなので、手をつないで私の行き先とは逆方向の場所まで誘導してあげた。急いで折り返せば、今度は同じ交差点で慌てすぎて、婦人警官に叱られた。地下鉄に乗ったらあまりにも眠くて居眠りしちゃって、乗り過ごしてしまった。遅刻しそうで焦りながら折り返してようやく駅に着いた。それから百メートル走のスピードで走り、公園の柵を飛び越えようとしたけど、バランスが崩れて顔が先に着地してしまった。近道をしようと裏道に入ったところ、今度はデリバリーの自転車に出会った。自転車は私を避けようとして横転し、目の前で派手な音を立ててたくさんの皿を割った。デリバリーのお兄さんの怒りを受け止めながら賠償までした私に残されたのは、あとわずかな時間。
約束の時間ギリギリでやっと会場に辿り着いたけど、当たり前のように遊馬の姿はない。
それどころか――遊馬はその日に限って、いつも以上に遅れた。

腕時計の針を確認する。約束の時間はとっくに過ぎている。コンサートはもう始まっているのに、まだ遊馬が現れない。私はバッグからチケットを取り出し、ぼーっとそれを眺めていた。遊馬はいつも遅刻する。それはもう慣れたことなのに、どうして今日はこんなにもつらいのか。
「10分遅れたのは悪かった、謝る。だけど20分待ったってのは、野明が10分も早く来ちゃったせいもあるだろう」と、遊馬は屁理屈をかつてこう並べたことがある。10分前行動は人としての礼儀でしょうに。でも私の場合、遊馬に1分でも早く会いたい、一緒に出かける時間を1分でも逃したくない……そんな心理が働いてるのかもしれない。遊馬は、そんなこと微塵も考えたことないのでしょうね。ほんと、ずるいよ。靴のかかとで地面を蹴りながら、私はぽつんと呟いた。

約束の時間から20分、コンサートが始まってからは10分が過ぎた頃、通勤でよく着るコートを着た待ち人がようやく現れた。
盛大に怒ってやる所なんだけど、遊馬が来てくれたことに安堵しきって、腹を立てていることをすっかり忘れた。情けないことに、私はただただ浮かれ、遊馬の腕を掴んで足早に劇場に入った。
今思えば、これが俗に言う「惚れたもん負け」なのか。二課時代の私は、自分が遊馬に恋心を抱いていることさえ気づいていなかったのに、この時、お互いの思いの温度差がこんなにもあることに気づき、ひどく落ち込んでいた。
そしてこの「デート」も当たり前のように──コンサートを聴いてから二人でファストフードを食べに行った。遊馬のせいでオープニング曲を聞き逃してしまったから、当然遊馬のおごりとなった。腹七分目まで食べた私は、ふにゃふにゃになったフライドポテトをつまみ、まだフライドチキンを頬張っている遊馬を見て、ようやく腹の中の鬱屈を言葉にしてみた。
「ねぇねぇ」
「ん?」
フライドチキンを頬張っていた遊馬の視線が私に向いた。
「遊馬さぁ、誰と出かけてもこんな感じなの?」
「こんな感じって…ひでぇな、今おごってもらってる相手をもう忘れた?」
「偉そうに言って…ファーストフードをおごるだけじゃん。そもそもこれは、遊馬が遅刻したことのお詫びでしょう!」
「…ファーストフードでもおごったことには変わりないだろ? ……まぁ、他の人と出かけると言ったら…。
太田の場合は、途中で説教が始まり、文句ばかり言われそうだから、遊びに行くどころか、目的地に着く前に大喧嘩になるからな。……警察学校の同期とか高校の友達だったら、みんな多少遅刻するから、俺とそんな変わんねーよ」
「そういうこと言ってんじゃないの」
「じゃあどういうこと言ってんだよ」
「…例えばね、遊馬の好きなタイプの女の子なら、うん……好きな芸能人のかとうれいこ②とか、森村聡子③みたいな子、えっと、お嬢さま気質で、胸もデカい、ロングヘア、の清楚系美人、と遊びに行ったら?」
「それはデートだろ。これとは違うだろ」
「ちょっとー、今のこれも『デート』じゃない?!」
「……、……まあいい。とにかくデートなら俺も流石にマナー守るよ」
「ふーん? 10分前に待ち合わせの場所に着けるの?」
「当たり前じゃねぇか」
「博物館デートとか行って、自分をかっこよく見せつけるために、しっかりした男のふりをして、解説したりするの?④」
「まあ、そんな感じかな」
「しかも、いいレストランを予約しといて、食事の前に喫茶店で向かい合って映画のパンフレットを見るじゃなくて、プラネタリウムに行って星空を眺めたり、その隙に手すりに置いた彼女の手に触れたり、とか?④」
「野明、お前は俺を何だと思ってるんだ。デートなら、当然のことだろう?……実際、やったし」
「遊馬がか? なんか想像つかないよ」
「失礼なやつだな」
「…あたしと出かける時と、ずいぶん違うよね」
「だーかーら、野明とは『デート』をやったとしてもだ、違うもんは違うんだよ」
「ええーひどーい」と不満げな声を漏らしながらも、遊馬に顔は見られたくなくて、私はぷいと下を向いた。
「何怒ってるんだよ。ははん? 分かった…お詫びの飯がファーストフードで悪かったなぁ」
「そーだよ。チョコパフェ追加してくれないと許してあげないからね」
チョコパフェとは関係ない、まったく関係ないんだけど、それでも私は、遊馬のお金を持って追加注文に行った。席に戻ってお釣りを遊馬に返すと、私は目の前の美味しそうなチョコパフェを食べもしないで、ただスプーンでつついていた。

単に回数を重ねるだけで何も変わらない私と遊馬の「デート」とは違って、世界のどこかに必ずいるであろうその彼女はいつかきっと遊馬と巡り会える。そしてデートを重ねるごとにお互いの距離が縮まる。その女性は容姿端麗で清楚可憐で、おそらく遊馬好みのストレートの長い髪を持ち、遊馬好みの貞淑でミステリアスな部分もあるに違いない。胸は、そうね、平均以上で満足するでしょう。あいつは意外と中身重視だから、本当に好きになった女性にそこまで厳しくないでしょう。遊馬はきっと彼女のために鏡の前で自分の姿を整え、彼女の前では落ち着いたいい男のように演出し、そして最終的には彼女のために、今の私たちのような子供でもなく完全なる大人でもない状態から脱して、一人前の男になるのでしょうね。
遊馬と私は仕事場でいつも一緒にいたけど、プライベートでの付き合いといえば、必ず最後に別れてそれぞれの場所に帰る。だけど遊馬はその女性となら、同じ場所に帰るのでしょう。面白半分に、私は遊馬と彼の将来の伴侶の「ただいまー」「おかえり」的なワンシーンを想像してたこともあった。脳裏に出てきた映像がベタすぎてちょっと笑っちゃった。けど遊馬が運命の女性と最後には同じ新しい篠原家の墓に入るのだと思うと、なぜかそれだけが信じられないような、うらやましいような気持ちがして、胸が苦しくてどうしようもなかった。

(①パトレイバー演奏会DVD付短編アニメ『野明の一日』より
②リアルなグラビアアイドル。当時のテレホンサービスのエピソードでは遊馬が彼女の写真集を宿直室まで持ち込んでいる。
③架空の女優で、漫画版11巻に登場。遊馬のごひいきである。
④『雪のロンドン』での遊馬と加嶋のデート。)


(三)
飛行機が羽田に着陸して手荷物を取りに行き、国内到着の通路を出ると、まばらな出迎え人の中にその姿を見つけ、びっくりした。
遊馬は私に手を振った。
「あれ? 銀座駅で会う約束じゃなかったの?」
「予定変えたんだよ。投資先の人は予想以上に説得しやすかったから、余った時間で他にやることもねぇし、野明を迎えに来たんだ」
「…他にやることもない、ねぇ…」
「俺が暇人だと言いたいのか? まぁ、そりゃ、構わねぇけど」
「へえーベンチャー企業の社長さんなのに?」
「よせよ、お前にそう呼ばれると恥ずかしいだろう。俺の上には一緒に起業した有能なやつがいるぞ。進士のことをまさか会長様って呼ぶのか。…なんだ、暇だと言ってるのに、何が気に食わないんだ?」
「いやいや」と私は首を振った「まさかー」
遊馬のプライベートのことだ。今の私は、もう彼のあれこれを気にして首を突っ込む『あたし』じゃない。
結婚三年目にして夫を交通事故で亡くし、再び東京に戻ってきた二十年前の私は、遊馬と再会した時、ある確信を持った。それは、私の青春時代のすべてを占拠してきたこの男性を、もう恋愛感情で見ることはないということ。
災厄色に満ち、存在自体無駄だった恋心が、ついに跡形もなく、永遠に散ってしまった。

遊馬の車で銀座へ向かう途中、ラジオ放送がここ二日間東京に寒波がくることを伝えていた。北海道から帰ってきたばかりの私は寒さに慣れてしまったのか、車外に出た瞬間さほど寒さを感じなかった。それでも、しかし鼻に吸い込む空気は確かに冬特有の引き締まった澄んだ感じだった。試しに手のひらに息を吐くと、両手から白い霧が立ち上った。
私は首に巻いたマフラーを軽く締めてみた。やはり東京にも冬がやってきたようだ。

私のウェルカム晩餐を開く場所を、遊馬は勝手に銀座のレストランあづまに決めていた。彼曰く、以前銀座の打合せで部下と共に昼食をとった際、ここの料理があまりに美味しくて感動し、それ以来忘れられないのだと。遊馬に連れられて入ったのは、年代感のある格調高い内装が特徴の小ぢんまりした店で、どことなく見覚えがあるように感じられた。\u0000
銀座界隈は、私も遊馬も若い頃からよく知っていた。
まだ二課にいた頃、私たちが住んでいた警視庁の寮はそれぞれ東雲\u0000と潮見にあり、歩けばすぐ顔を合わせられる距離だった。けれど埋め立て地ばかり見ていて飽きたせいか、休日デートの待ち合わせ場所は決まって都心を選んだ。映画は永楽町のシネマズ日劇①が定番で、観終わると自然と肩を並べて隣の銀座の通りを歩いたものだ②。ここ数年で銀座の街並みは変わりつつあるけど、昔見慣れた場所が残っていてもおかしくはない。\u0000

「この店は入口こそ小さいけどな。80年代に創業して半世紀近い老舗なんだ。値段もこの辺りでは安いほう」
ガラス戸を開けてくれた遊馬が少し得意げな顔をして紹介し、出迎えた店員に予約があることを告げた。\u0000

店内は狭く感じたけど、意外にも地下階まであるらしい。ウェイターに予約席へ案内され階段を降りていく。マフラーを外しコートを脱いで席に着くと、食卓の上に置いた古いランプに目が留まった。柔らかなオレンジ色の明かりを見ながら私は、ようやくここに見覚えがある理由を思い出した。\u0000
「この店、遊馬と一緒に来たことあるよね」
メニューを手に、向かいに座る遊馬に声をかけた。
「はぁ?」
遊馬は眉をひそめた。
「そんな訳ないだろ? 俺だって二週間前に初めて来たんだぞ」
「だからこの間じゃなくて、まーえーのこと──って言ってるでしょう。遊馬、まったく覚えてないの? あの時私が奢るって言ったら、遊馬、二回も追加注文して、いつもは食べないスイーツまで頼んだじゃない」
「…前? …うん……」
腕を組んで斜め上を見る。必死に思い出そうとしているようだ。
「やっぱ思い出せないなぁ…かなり昔のことだろう。そんな昔のこと、よく覚えてるな」
「まぁね、確かに三十年近く前の話なんだけど、でも遊馬はあの日、この店で稲造さん一枚を一人で食べちゃったんだよ。忘れたくても忘れられないよ」
「三十年前……」
遊馬は私の記憶力に驚いたようだった。
「だめだ、まったく覚えてない。あれだけの量を一度に食べられるんだ、やっぱり俺はこの店が気に入っていたんだな。野明は何食べたいのかもう決めた?」
「私はこのお好みセットがいい。エビフライもハンバーグも両方食べられるし」
「オッケー、すいませーん」
遊馬はウェイターの方へ身を乗り出して腕を上げた。

遊馬が注文したのは、この店の看板メニューである「大人のお子様ランチ」とウーロン茶だった。三十年前とまったく同じものを注文してるから、店員が離れてから、私は首を傾げて遊馬に聞いた。
「遊馬は本当に覚えてないの?」
「嘘ついてどうする」
コップを唇に近づけようとした遊馬は小さく眉をしかめた。
「まったく覚えてねぇよ」
「前に来た時も、遊馬が最後に追加注文したのがそれだった。今でも思い出すよ。また千円、水の泡になってぱっと消えちゃった感覚をね」
「よくそこまで覚えてるな。それで、野明とそれ以来この店に来なくなったのか?」
私は首を横に振って、「違うよ。たぶん、あの日から東京を出て北海道に帰ったから、機会がなかっただけ」と答えた。
遊馬はグラスをそっと置いた。
彼の表情を見て、さっきのはまずかったかと思い、気まずい空気を変えようと笑って言った。
「ははは、何まじめになってるんだよ、遊馬」
一瞬での出来事であった。遊馬の顔から色を失い、みるみるうちに深淵のように澱んでいった目からは、驚愕の色が滲んでいた。遊馬のせいじゃないのに。すっかり翳りを帯びた黒い瞳を避けるように、私はメニューをテーブル脇のクリップへ戻した。

「ったく、遊馬があんなにたくさん食べてなかったら私も覚えてないよ。もうかれこれ三十年も前のことだしね」
たかが私の永すぎた春の終わりだった。あの日私は、精一杯の告白とさようならをもって、ついに自らの手でその春の季節を永遠の終焉に導いた。
記憶が正しければ、当時の私と遊馬は、今いる席の隣に座っていた。あの頃、東京を戦場とした空想との戦いはとっくに終わっていた。18号埋め立て地に向かう地下エレベーターで待ち伏せしていTRT66との最後の戦いで、アルフォンス三世の駆動システムは完全に破壊された。あの後、警察を離れた私もレイバー搭乗資格を取り消され、生涯にわたって取得禁止となった。警察から追放された私たちは同僚ですらなくなり、一心同体のパートナーと呼ばれたのはもはや過去のこととなった。
私は隣の席をぼんやりと眺める。あの時、私の中に残っていた東京へのわずかな未練を完全に打ち消したのは、その席での出来事だった。

「ねえ、そういえば」
今日と同じオレンジ色の照明の中で、三十年近くも前のあの時の私は、テーブルの下に隠れていた両手を相互に握りに握って、遊馬に向かって言った。
「遊馬が篠原重工を継がないんだったら、百年後、お墓はどうなるの?」
「お墓?」
「うん、お墓。やっぱり篠原家の墓に入る、のかな?」
「言われてみたら……そうだな。できることなら、親父とは一緒になりたくないねェ。そうだな、その時はまた別の墓を作ろう」
「じゃ、菩提寺を変えるの?」
「ああ、そういや、菩提寺ってのもあるな…」遊馬は暫くやや顔を上げて虚空を眺めながら考えた。
「まあ、俺はどこに埋められようと別にいいんだけどな。東京湾に撒いたって…いや、ちょっと待て、あそこの水質は、やっぱ心配だよな。伊豆あたりの海なら理想的かもな」
口元にまだ「大人のお子様ランチ」のカレーがついていた遊馬は、一旦食べることを止めたが、何かを思い出したように、手のスプーンを再び動かした。
「…でもまだ早いだろ、俺たち。まだ二十代なんだから」
私は遊馬に向かって少し前かがみになり、テーブルに手をついた。
「もし、あたしが死んだら」
遊馬はさっと顔を上げ、手にしていた食器を置くと、
「野明、お前…急にどうした」
すっかり真顔になってそう言った。
「今、レイバー警備保障会社でやってんのは事務の仕事じゃなかったか?」
私は笑いながら「いやいや」と手を振り、適当にごまかしてみる。
「ただ、あたしのお葬式や法事の時に、誰来るかなって思って、遊馬が来るかな、って」
その言葉に緊張が解れたのか、「そりゃ、野明より長生きしないとなぁ…。元パートナーの葬式に行かない訳ないだろ。法事だったら、野明の親戚でもない俺が出席できないだろう?」 と言った。
「じゃ、お墓参りは?」
「野明は泉家のお墓に入るのに、俺みたいに抵抗はないだろう?——つまり、北海道だよな。」
「……」
私が誰かと結婚して泉家の籍から抜ける可能性に、遊馬は全く思い至らないようだ。でも指摘する必要を感じないし、口を開く気力すら湧かなくなった。
「やれやれ、その時のお爺ちゃんな俺は飛行機なんて乗れるかどうか、だな。」
再びカレーを頬張り始める。
私はどうしても食事する気分になれず、自分の顔が暗くなるのを自覚していた。体はまるで冷たい海水に浸かっているかのよう。骨の髄の奥からぞろぞろと寒気が流れ出てくる感じだ。身震いがしてナイフを持たない左手でそっと、もう一方の腕を押さえた。
かつて自分の体の一部とすら思えたアルフォンスも、当然ながら結局私のものでなくなった。アルフォンスを失った遊馬と私に至っては、昔幾度となく「一心同体」とまで言ったのに、所詮赤の他人にすぎなかったのだ。\u0000

「…そうよね。なんか今日、変な質問したね」
「本当、今日の野明、変だよ」
遊馬は顔を上げ、まっすぐ私の目を見据えた。
「あはは、そっか」
少し気まずくなって、思わず頭を掻いた。
いくら当たり前のように毎日連絡を取っても、機会あるごとに一緒にいても、遊馬はいつまで経っても歩み寄ろうとしなかった。もし、私が少しでも遊馬の好みのタイプに近かったら、懲戒免職もらった日や、一緒に八王子工場に赴任した時…いや、まだ二課で操縦担当と指揮者をやってた頃に、遊馬は私の手を引いてくれただろうか。
決して鈍いわけでも、気弱なわけでもない遊馬。\u0000彼と「一心同体」のパートナーだった私は、それを誰よりも知っていた。彼は時限爆弾の解除中死ぬほどの経験をして辞表を出していたのに、香貫花が研修で入隊するのを知り、思い直して特車二課に残った。自分に望みがないと知りつつも正月前の休暇には、バラを持って彼女のマンションへ奇襲をかけた。遊馬はむしろ自らの感情にとても素直で、プライベートでも知恵と勇気を充分に発揮できる青年だ。
しかし私が過去の経験からある事を思い知らされていた。私は、私以外何にもなれない。私より私の事を理解してくれるかもしれない遊馬の前で、今さら別人のふりなんてできない。恋愛は一方通行じゃない。私の抱いているこの感情は、ただただ行く先が最初からないのだ。

私が遊馬に告白したらどうなるだろう。
たとえそこに恋愛感情がないとしても、私には会いたい時すぐに会えるといい、そういう気持ちはきっとあるはず。自称「冷血漢」だけど本当は優しく、「元同僚」である私を彼なりに大切にしてくれている。そんな遊馬だから、一時的に私の思いを受け入れる可能性がないわけじゃない。でもそれだと一方的な束縛になってしまうだろう。この先二人がどんなに頑張ろうと、どれほど一緒に時を過ごそうと、遊馬の首を絞めることになってしまうのだ。きっとそう\u0000に違いない。私はそんな関係を望んでいないし、遊馬を苦しめることだけはしたくない。絶対に。\u0000

「楽にしてあげる」
だから三十年近くも前のこの日、それぞれの道へ歩き出したあと遊馬を呼び止め、訳が分からずにこっちを見ている彼に言った。胸が張り裂けそうだったけど涙を堪えて、笑いながら手を振った。泣いてる心を悟られないようにわざと歯を見せて、精一杯明るく。

私たちの関係は、人生の別れ際に涙を流すほどには親密じゃない。涙の別れなんてきっと、私と遊馬には似合わない。
踵を返し、歩き出す。背後から遊馬のvwタイプ2のドアの開閉とエンジンの始動音が聞こえてきた。颯々と、風が音を立てる。春の海原を越えた綿津見と呼ばれる湿っぽくて暖かい海風が背中を押す。青臭さを纏ったわずかな肌寒さに押されながら、風に吹かれて乱れた短い髪を手で押さえていた。

――それでも私は、この風が未来に向かって吹いていることを確信していた。目を閉じると、風に吹かれた頰に命の息吹を感じた。すべてを失っても、先が見えなくても、私は確かに、しっかりと、ここに立っている。私は確かに、今ここに生きている。そして、一歩また一歩と、未来に向かって歩んでいく。
私は笑っていた。さっき遊馬に笑いかけた「泉野明」らしい笑顔じゃなく、酷く苦く歪んで、自分でもおかしいと感じるくらいの笑顔だった。それでも私は笑う。自分に向かって笑う。静けさに包まれて、希望と重なり合う。

それから三年後、まだ新婚だった夫を交通事故で亡くし、店を閉めて東京に戻った。遊馬と再会した時は、記憶の中の傷がとっくに瘡蓋になっていて、痛みの中から恋愛とは無縁の優しい愛情さえ生まれていた。かつてとまったく違わない遊馬の態度に、私は告白の返事を身をもって聞かされたような気がした。あの時、最後に微かに残っていたもどかしい気持ちも、完全にどこかへと消えていった。



①on television(テレビ版) 28話
②漫画版 単行本18巻


(四)
そして元同僚のままで三十年経った今、同じレストランの地下フロアで向き合って座ってる。皿に手をかけているのに食欲が湧かないのか、伏し目がちな遊馬の表情に、私は愁いを感じ取っていた。知り合って三十年が過ぎた彼の、五十を過ぎていてもせいぜい四十代にしか見えない整ってる顔を見て、私はただぼんやりしていた。
「ちゃんと見たらさぁ、遊馬ってすこぶる顔がいいよね」
私の口から褒め言葉が飛び出したことを意外に思ったのだろうか、遊馬はハッと顔を上げ、目を瞠った。けれどいつもと変わらない表情の私を見て彼はまた表情を変え、余裕のある顔で少し首を傾げ、悪戯っぽい笑みを私に向ける。
「失礼だなぁ。俺と知り合って何年目だと思ってるんだ。何を今さら……まさか、俺に惚れ直したんじゃねぇのか」
私は首を横に振って、微笑み返した。
「流石に、今はもうしないのよ」
「そうか、今は……ねぇ」
「うん。だって二課にいた頃は、異性として同僚のことを見なかったんでしょう。それに遊馬も知ってると思うけど、装備開発課から八王子工場に赴任した時、遊馬の存在は私にとって大きすぎたのよ。大きな目に下三白眼、よく見れば彫りが深くて奥二重、鼻筋は通っていて、高さもある。もう見慣れ過ぎているから今さら客観的な感想しか持てない。
そういえば、遊馬ってさぁ、織田〇二に似ているって言われたことない? いや、鼻の形いいから、もしかしたら織田〇二よりかっこいいかも?」①

私が捲し立てて言ったせいか、遊馬は面食らったように呆然とこちらを見ていた。しばらくぽかんとした後、唇の端にからかうような笑みを絞り出した。
「そんなこと言ってる野明って本当オバサンくさいなぁ」
「もう五十過ぎてるから、オバサンくさいも何も、もうおばさんだよ―んだ! 遊馬だってさぁ、かっこいいといっても、もうかっこいいお兄さんとかじゃなく、ただのイケてるおっさんなんだからね」
「人間五十年——まぁ、確かにお互い、もう若くねぇからな」
遊馬は手にしていたスプーンとフォークを一旦置くと、「な、野明。泉家の菩提寺を紹介してくれないか」と言った。
その言葉にハッとした。私の大きく見開いた目に遊馬の視線がまっすぐ注がれる。
「この歳になったらさ、そろそろ人生の着陸の準備を始めないとなって思って。野明も知ってると思うけど、親父が死んでも、俺はもう、篠原重工を継ぐことはないと決めてるんだ。篠原家の墓所には兄とお袋が入ってるけど、俺はきっと、いや絶対あそこには戻らない。あそこは俺の戻るべき場所じゃねぇ」
「…そっか、まだ早いとは思うけど、まあそうだね。うちの菩提寺っていったら北海道だよ。遊馬知ってるでしょう? 私の今度の帰省はお父さんの一周忌に参列するためだって。遊馬ならやっぱり、東京か前橋辺りで別の寺を探した方が……」
「俺には子供もいねぇし、墓参りしれくれる人間ねぇだろ? 野明は確か、いとこの甥に頼むつもりだって言ってなかったか?」
「まぁ……そうだね。姪のほうだけどね」
私は頷き、
「今は北海道の地酒のネット販売の仕事、地元での業務をほとんど彼女に任せてるからね。彼女のお父さんにも、つまり私のいとこなんだけど、いつか私が死んだら会社も遺産も全部彼女に託す代わりに、定期的にうちのお墓の手入れをしてほしいって言ってある。私だけならどうでもいいけど、お父さんはもうあそこに眠っているし、お母さんもいつか死んだらあそこに葬られるだろうしね…。しかもあそこには、私の帰りを待っている人がいて…何せ彼は婿養子だったんだからね」
そこまで言って、私は薄く笑った。
遊馬の顔がいくらか暗くなったのに気づいた。
「そうだよなぁ、死んだ後の墓の手入れとか、それが面倒だよな。俺の場合、篠原家の親戚とはもちろん、母方の親戚とも付き合いがなかったから。どうだ野明。お前の姪のお嬢さんに、俺の分の委託料、加えてもらえんだろうか」
「あー、だから菩提寺をうちに…」
遊馬の真意が見えた気がした。
「そういうこと。俺の墓が泉家の墓の隣だったら、お前の姪のお嬢さんについでに俺の分まで手入れとかしてもらえるのになぁって思って。さほど手がかかる仕事じゃないと思うんだが。もし俺が野明より先に死ねば、俺の遺産と会社の株は野明に先に渡し、逆だったら姪のお嬢さんに渡す。そうすればだな……」
テーブルの上で合わせている手に力がこもった。
「野明のお墓参りに行く日が来たら、俺がどんなに老いぼれになっても、飛行機に乗れなくなっても、必ず北海道の野明のもとに行けるだろ?悪くねぇだろ?」
「……遊馬、思い出したんだね、あの時ここでの会話」
私の笑顔は少しぎこちなくなっていた。
「あの時の遊馬はまったく違うことを言ってた気がするけど……」
「…普通なら二十代の若者に、葬式とか、まじめに考えるとか、ありえねぇだろ」
遊馬は椅子の背に肩を預けた。あてもなく遠い目で前方を見る。
「少なくともあの頃の俺は、ただ目の前のことを見つめ、このまま同じ日々がずっと続くといいなぁって思ってた。仕事は一生懸命やって、疲れたらぐっすり寝る。で、まだ気力が残ってたら、寝る前に野明に電話やメールをしたり、週末に会いたかったら呼び出したり。あの時は、ずっと変わらずそのままの日々を送ってくんだと、思ってたぜ」
「……今だってそう変わらないじゃないの? 遊馬がさっき言ってたこと。今もこうやって一緒にご飯食べてるじゃない?」
「ちょっと違うぞ」
遊馬は私の目を見つめる。
「今、野明が泉家のお墓に自分を待っている人がいるって言った時、違うなって思った。なんだか、野明に置き去りにされたような気分だぜ。ずっと時間を共有してきた、たった一人のお前なのに。なのに……『じぶんにさだめられたみちをひとり往かうとする』わけだ、お前は。ついに俺の手の届かないところまで行ってしまうんだなって、そんな気がしたよ」

遊馬の目線に圧倒され、唇の端がぴくりと動いた。
「っ、はは、…三十年前の私だったら、絶対勘違いしてたよ」
ややひきつり笑顔を見せた私に、遊馬はまったく動じない。
「知ってるんでしょう? 私は、遊馬のことがずっと、好きだったってこと。…あれほど私のことちゃんと見てきた遊馬が、知らないはずがないでしょう」
彼は唇を軽く噛んで、何も答えなかった。それが、答えだと分かった。
「…そうだよね、賢い遊馬のことだもん。きっと私が自分の恋心に気づくずっと前から、それを気づいてたでしょう?…いくらなんでも、休みを一緒に過ごす相手がいないと言って、千キロ以上離れた東京から一人で駆け込んできた同僚の男性を実家の親に頼んで泊めてもらうとか、二課のような個人意識の薄い組織内でも、今思えば私は、どんだけ大胆なことをしたか」
遊馬は大きく息を吸い込んだ。
「ごめん」
「遊馬が謝る事じゃないよ。別に、遊馬を責めてるわけじゃないし。ただ、やっぱり、遊馬は東京で菩提寺を探すべきだと思う。遊馬は今、進士さん一家と仲いいんでしょう? 墓所管理とか後の事は、進士さんの子供さんに任せたほうがいいと思うよ。一緒に起業してるし、株の管理も便利じゃない? 私の姪のことなんだけど、ここで謹んでお断りしようかな。遊馬と私との『特別』な絆……」
少し間を置き、告げる。
「つまり、かつて私たちが職務上の『一心同体』と呼んでた関係——アルフォンスの『疑似両親』としての関係は、TOKYO WAR以来、もう消えたはずだよ」
「アルフォンスの…『疑似両親』?」
とたんに遊馬は眉をしかめた。
「急に何を言い出すんだ野明、俺は、そんなこと一度も……っ」
「遊馬は意識してないだけでしょう。特車二課という警察システムの特殊な共同体の中にあっても、第一小隊にしても、第二小隊にしても、遊馬と私みたいな『一心同体』を実行してるパートナーなんていないよ。遊馬と私は、当然男と女の関係じゃなく、寧ろそういう関係を連想させる部分を、意識的にも無意識的にも排除して接してきた。そもそも…私は完全に、遊馬の好みとかけ離れていたし」
テーブルの上に置かれた遊馬の手が握り拳になり、小刻みに震えだす。
「ごめん、野明……いままで」
「謝らないで!」
遊馬の次の言葉を遮るように、私は思わず声を大きくした。幸いにも私の声がレストランのBGMに隠れていて、隣の客の注意を引くことはなかったけど。
「私は遊馬と出会ってから、今まで共に過ごした三十何年もの時間が、後悔することなく正々堂々と自慢できる時間だと思ってる。遊馬だってそうでしょう?だからお願い、謝らないで。」
返される言葉はなかった。私の目を見据えてまま、その手の震えだけが止まらなかった。

「遊馬も知ってるはずでしょう。私のイングラム一号機への気持ちは、普通の操縦者が愛車や愛機を愛でる感情とちょっと違うこと。大事なペットの愛称を付け、搭乗して、大切な仲間、或いは精神上の子供として育ててきたこと。『アルフォンス』とは、ずっと、半永久的に一緒にいたいと本気で願ったこともあったよ。こんな風に私の操縦者の生涯に融合した『ままごと』を、遊馬もその中に身を置いてきたのだから少しは自覚してるでしょう」
私も膝の上に置いた手をいつのまにか強く握りしめ、遊馬と目を合わせると、どうしたものか、腹の底から何かが湧き上がってくるような気がした。
「むしろ、遊馬はかなり積極的に『アルフォンス』の『お父さん』役をに担ってたんじゃないかと思うくらい。指揮担当になって『アルフォンス』の母親役を演じてた私を通してイングラムと付き合った。だからこそ、遊馬はイングラムと付き合っていく中で『篠原重工社長篠原一馬の息子』という立場を降り、そしてその肩書に縛られずに一人前の『篠原 遊馬』に成長できたんじゃないかな。その過程で、恋愛とか性交渉とか、結婚も出産も、まったく経験しなくていい。——そういうことをするのなら、今も昔も遊馬には、もっとふさわしい女性がたくさんいるに違いない——そうじゃないの?」
私の視線に押されて返答を促される遊馬は、しばらく黙ってたけど、決して私の視線からは逃げなかった。
「……アルフォンスの『疑似両親』、もし、これが野明の捉え方だとすれば」
「遊馬時々忘れてしまうかもしれないけど…若い頃の二課でのままごとはとっくに終わってたの。私はもうレイバーが好きなだけの女の子ではなくなったし、遊馬も私も二度と『アルフォンスの父と母』になんてなれない。——いくら仲が良くても、今の遊馬と私は所詮赤の他人。赤の他人にしか、なれないよ」
握った手を開き、私は軽やかな微笑みを作って肩を竦めた。
とたんに、手近にあったコップを飲み干すと、遊馬はテーブルに突っ伏した。
「遊馬のそれ、本当にウーロン茶? お酒みたいに飲んでるけど…」
「当たり前ぇだろ!」
テーブルに伏したまま、くぐもった声が言った。
「オーダーしてる時見てただろ。いい年して飲酒運転はねぇだろ。……今となっては交通課の巡回時間も分からないしさぁ」

店を出ると、寒風が私たちの間を吹き抜けた。襟元から滑り込む冷気が袖口へと抜けていく。さすがにこの寒さには耐えられず、背中を丸めて足踏みをする私と遊馬。どちらからともなくそれぞれ首にマフラーを巻いた。
「野明の……元夫って、どんな人だった?」
私の一歩前を歩く遊馬が、振り返りもせず聞いた。そっと彼の横顔を覗いてみるけれど、問いかけられた意図が見えず、すぐに目を逸らした。
「最初はただいい人だなぁ、正直で誠実な人でうちの親の店を一緒に継いでくれる人だなぁって思ってた。後になってもの好きだなと思ったよ。だって彼は私のことを本当に恋愛感情で愛しているようだった。私は人生で初めて、しかも唯一、ずっと求め続けてきたものを、最終的に温かみのある人間のそばで手に入れたような気がしたの。今となって彼は私にとっての人生の到着点みたいなものだから、私が最終的に帰るべき場所はあそこだって思えるの。そのことが何よりも安心させてくれる」
遊馬は少し体をこっちに向け、私を見て力いっぱい首を振ってみせた「…のろ気かよ、まったく」
「遊馬が聞いてきたから、答えただけじゃない」


①当時、ニュータイプの実写版パトレイバーキャスト投票企画にて、出渕先生が(遊馬役に)「織田裕二さんか野村宏伸さんだね」とおっしゃっていましたから。


(五)
遊馬が送ってくれた帰り道、私はまた夢を見た。三十年前に遊馬のvwタイプ2の助手席に座っていた自分の夢だった。膝の上にある重みの正体は、ボストンバッグである。通勤時にはこれを背負っており、中には取り替えた篠原重工の作業着が入っていた。警察手帳と、本庁から発給された赴任マニュアルも入っていた。私のマウンテンバイクは車の後ろに入れられている。私が眠りにつく直前から、目を覚ましたさっきまで、車の小刻な揺れに合わせて、ベルがずっと鳴っていた。その音に加え、左手の運転席に座る遊馬の操縦音やエンジンの唸りが合わさり、合奏みたいになっていた。ああ、ブレーキ音とギアレバーの音だ。車が止まったようで、かすかな振動と音が消え、窓の閉まった車内は今ひときわ静まり返っている。頭が助手席のヘッドレストに持たせかけたまま、脳は夢見と現実の境界線をさまよっていた。聴覚が徐々にうつつにつながっていく中、聞こえるものは遊馬の呼吸しかなかった。
記憶と一致している。シートベルトを外す音、その次に聞こえてくるのは布とシートの擦れる音、それから遊馬の匂いがした。額が慣れない髪の感触に触れ、それと同時に唇は優しく奪われた。脳裏をかすめるデジャヴ。交錯する光と影。青春を彩った夢。

あの日みたいに、胸に焼き付くような熱い疼きはなく、ただ漠然と懐かしさのような微熱があった。パートナーの一挙手一投足にドキドキしていた女の子は、もう自分の中には存在しないのだと実感した。小さな墓石だけが残され、心象世界のどこかに立っている。
唇の温い感触が消え、私は目を開けた。
夢は消え、私を包んでいたのはいうまでもなくタイプ2の内装ではなく、遊馬が今乗っているビジネス・プライベート兼用のBMW X5だった。車は私のアパートのすぐ近くの駐車場に停まっていた。

遊馬はハンドルに頭を突っ伏し、片方の腕を額の下に当て、もう片方の手で口を押さえていた。疲れているように見える。その時初めて遊馬のもみあげの辺りに白髪が混じっていることに気づいた。横顔を見れば、幾分衰えはしたものの、やはりその顔立ちはひどく整っている。私が心配するまでもない。
この長年の友人は、二課以外の女性が彼に近づくと、「篠原目当て」じゃないかといつも疑心暗鬼になったものだった。でも今では彼も自分に自信が持てるようになったに違いない。この歳になっても、本人が積極的に行動を起こせば、心から愛し合う人生のパートナーを見つけること本当は容易いはずだ。
遊馬は私の視線に気づいたのか、ゆっくりと体を起こしてこっちを向いた。
ハッとなって、私は小さく息を吸った。
「どうした?」
「…何でもないよ」
指に遮られることなく、今度は遊馬の唇が僅かに色づいてる様子が鮮明に見えた。私の使っている口紅の色だった。三十年前とは違ってすっかり大人の女性になってしまった私の変貌が、無意味な夢の断片を現実に持ち込んできた──なるほど、さっきまでのことは、あの「夢」とほとんど同じ状況と気配、そして感触だったから、私は勘違いして、さっきの自分はまたあの頃の「夢」を見ていたかのような錯覚を起こしていたのね。
「…ほら、遊馬のマフラー、ここ、裏地が捲れあがってるよ」
私は遊馬のマフラーの首に巻かれている部分を指差し、「時々遊馬が、自分の外見を気にしないタイプじゃないかって思うのよ。ファッションが好きなくせに」と言った。
「…ファッション? ……そんなはずねぇだろ。」
「あーるーよ。若い頃の遊馬はデートの時プロデューサー巻きしてたでしょう? 完全に流行に乗ってたじゃない? 結局、歯を磨く時、口の中の歯磨き粉を襟元まで垂らしたのも遊馬なんだよね。ほら、そのマフラー、巻き直してあげる」
「…おい!」
抗議をよそに、私は運転席へと身を乗り出して彼のマフラーに手をかける。丁寧に折り畳んでからもう一度首に巻きつけた。何気ないふりをしてマフラーで遊馬の唇を掠め、その上の口紅の色をそっと拭い去った。不吉な赤が紺色の生地に痕もなく消えた。
記憶の中にある一番派手な巻き方をしながら、私は遊馬の奥二重に似合う大きな下三白眼を見つめていた。車内のライトが遊馬の眉山の下に影を落とし、その目を暗くさせていた。
「ーー実は、ちょっと思い出した事があるんだ。本当の大人とは呼べない、精神的にはまだまだ子供だったあの頃に戻ったって、何も手に入れられないって。」
私の手が、姪に教わった今流行のやり方で
遊馬の首にマフラーを巻いた。巻き終えると力を抜いた手はそっと滑り落ちる。
「遊馬は顔もいいし、若い頃は思いやりがあっても素直さに欠ける性格だったけど、今はいくぶん丸くなったでしょう。でもイメージと違って面倒見がいいところは、少しも変わってないよ。今の年になってもさぁ、簡単に伴侶、見つけられると思う。元同僚としてこういうこと言うのもあれだけど、私がまだパートナーと呼ばれてた時からずっと思ってる事なの。遊馬の欠けていた自己実現の部分はもう『ままごと』の『アルフォンスのお父さん役』に頼らなくていい、遊馬が家庭を持てばいいだけの話だって。今さら子供を作らなくても、せめてその相手が、遊馬の帰る場所になってくれればいいって」
「——なんて事を言うんだ、お前は」
疑問に思いながら遊馬を見ると、遊馬は唇を噛んだまま首を振った。そしてマフラーをするりと解き、後部座席へと放り投げた。
「あ、せっかく巻いたのに」
「野明のセンスに期待する俺は馬鹿だった」
「ひっどー、遊馬こそ、なんてこと言うのよ」
「…野明に手本を見せてやる」
ふと、遊馬の手が伸びてきて私の頭をポンポンと撫でた。パートナー時代でさえ滅多にされなかった仕草である。
「いきなり何…っ」
言いかけた言葉を飲み込み、私は遊馬を見た。どこか既視感を覚えるその表情が、記憶の奥にある残像と重なる。そう、この顔は私が時々アルフォンスのカメラ越しに見たもの。指揮用バイザーについているインカムに指をかけた時の遊馬だ。
「野明はじっとしてろ」
前の席のギアレバーを遊馬がひっくり返す。その光景をまるで夢を見ているように見ていた。
彼は身を屈めて私の首からマフラーを外した。
「手を出せ、野明」
「手?」
「両手だ、早く」
知らずの間に条件反射で手を出し、今となってもこの人の声は私の心の奥底までいとも簡単に滑り込んでくる。こんなに時間が過ぎても、若い頃のような力があるのだと実感した。
私が素直に差し出した手を見て、遊馬は笑った。車内のライトが彼の顔、左半分を照らし出す。右半分は深い影に覆われて、笑顔はまるで半分に切り取られたかのようだ。何十年か前に教科書の写真で見たギリシャ演劇の仮面みたいに、その顔には二重の意味がこめられているようで。光と影。希望と絶望。笑いと哀しみ。信頼と孤独。
火傷するほど熱い何かに触れたように一瞬でハッとなって、両手を引っ込めようとするが、もう遅い。遊馬の手が素早く私の手を捉え、私の両手ごとマフラーで縛り始めた。焦って下腹部に蹴りを入れてやろうとすれば、一足早く体重をかけられ、足はあえなく封じ込められた。足掻くこともできず、私はただ、その手が警察学校で習った方法で私の手をみるみる縛り上げるのを見てるしかなかった。

「いきなり何するんだ、遊馬! !」
「肉体を使う格闘で、しかもこの状況で俺には勝てないってこと、野明も分かってるだろ。だから諦めろ。機動隊勤務や刑事経験者には及ばねぇけど、一応元警察官だし、両手が縛られてる人間を完全制圧するなんて造作もないことさ。助手席のドアの取っ手に車拭き用の雑巾を置いたのも大当たりだったぜ。やりたくはないが、もし野明が助けを呼ぼうとするなら、それを使ってこの口を塞ごうか」
頭のてっぺんから、冷たい水をかけられたような気分だった。
「これは、まさか…っ」
「まさか」と早口で答えた遊馬の顔には妙に悲しげなものが浮かんでいた。
「…今更……」彼は一旦言葉を止め、歯を食いしばった。
「野明……」
遊馬の身体と両手が私の体に覆いかぶさってきた。その両手が、マフラーを外された私の首筋の両脇にかかった。慣れ親しんだ体温が、じわじわと皮膚の内部へ圧迫を加えてくる。

「ジョージ・イーストマンって知ってる?」
「全然…遊馬が何をしようとしてるかまったく分からない」
「コダックの創業者でそこそこ有名だが、野明も社長だろ?世界のビジネス史を読まなくてどうする」
私の話を遮った遊馬の目には、見たこともないような笑みがあった。その笑みに恐怖さえ覚えた。まるで漆黒の瞳の中にある底なしの淵から這い出てきた異形なるもののよう。
「ジョージは事業での成功と裏腹に、闘病中に自殺してしまった。『To my Friends, My work is done. Why wait?』(友よ、私の仕事は終わった。なぜ待つのか?)それが自ら命を絶つ前の、彼の最後の言葉だった」
「……もう生きることに未練はない…っ、遊馬は、それが言いたかったのか」
力のこもった指先が私の喉元を捉えて離さない。真綿が絡みつくようにゆっくりと、喉はその指に締め上げられていく。もう言葉を吐き出すことさえままならない。


「野明が今は安心だと言ったのも、死ぬことしか考えていない証拠じゃないか。そして俺は、ある日突然死んでしまったらこれができなかったことだけを後悔するんだ」
「っ、私が言ってたのは『死ぬこと』じゃなくて、『死後』のこと…。…私には分からないよ、っ…まったく理解できない。これでは、これでは、週刊誌の恰好の餌食になるだけじゃない……篠原重工の二代目が、同僚だった女性の元パトレイバー操縦者を、手にかける、」
そんな私の言葉を聞いて、遊馬は軽く笑った。
「望むところだ。らしさ満載じゃないか。野明が北海道に託した思い出から逃れるため、再び東京に戻った時から、そういう運命だったのかもしれない、なんて、あれこれ分析して書かれるかもしれねぇぜ。」
「……っ、どうせ私を殺せないでしょう? だって遊馬は、自分の命が危ない土壇場でさえ犯人の命を気にかける人じゃないっ。あの帆場暎一の命さえ、無視できなかった。遊馬自身がどう思っていようと、根のまっすぐなその性格は、恵まれて育った人間の証なのよっ 」
酸欠で頭が朦朧としてきた。けれど力を振り絞って笑顔を作ってみせる。視界もぼんやりしてくる。すると遊馬は顔を伏せ、その額がこつんと私の額にぶつかった。
「まだそんなに信じてるんだ。俺のこと。けど、相手が野明なら、俺は…殺せるよ」
絡みつく両手にさらなる力が加わった。首の血管が圧迫される音が脳髄に響き渡り、私は目を見開いく。
——これは、人を殺すような、首の絞め方じゃない!
遊馬は知ってるはずだ。気管を圧迫せずに頸筋の両側にある頸動脈だけ絞めていては、本物の窒息など起らない。柔道の喉の締め技に似たこの動作は、血流の速度を緩め脳の酸素供給を遅らせ、失神を誘発する可能性がある。そして…。
酸欠で鈍重になった脳内で、大きな恐怖が渦巻いていた。
至近距離にある遊馬の瞳を覗きこんでみれば、それは私の知ってた篠原遊馬のものではなかった。
その中には漲り渡る大海が広がっていて、荒れ狂う波涛が押し寄せていた。今まで息を殺し潜み続けてきた欲望がそれらを朱に染め、紅一色に変えた。想いはとっくに狂気へと変貌を遂げ、灼きつけた刹那を手にしたまま、悦びに変えてしまったというのか?

手足を懸命に動かしながら、私はまた抵抗してみた。理知的な判断による動きではなく、ただただ恐怖に駆られたのだ。上半身をシートの背もたれから落とし、少なくともその目から数秒は逃れられると思い――。
じたばたもがく私を押さえつけんばかりに、遊馬が太ももにまたがり私の身をぎゅっと挟み込んできた。ぴたりとくっついた体。毛穴の一つ一つまで彼の体温が染み込んできそうだ。鼻腔には遊馬の匂いが充満していた――。


「──泉野明、最後に俺の理論を聞け」


(六)
「──泉野明、最後に俺の理論を聞け」
脳を行き巡る血が衰えていくみたい。珍しく低い遊馬の声は、まるで別世界から聞こえてくるようだ。
「生まれも育ちも北海道で、両親と仲睦まじく、父親を目標に成長してきた酒店の一人娘が、高校卒業時には家業を継ぐことを選ばなかった。『レイバーが好き!』という理由で、高卒後北海道警察学校の入学試験を受けずに上京し、東京の警察学校に入った。それもこれも、卒業後に警視庁所属の当時日本唯一のパトロール・レイバー中隊に入隊し、パトレイバーに乗る夢を実現するため。とはいえ、周りから『機械フェチ』と揶揄されはしても、本格的な机械マニアとは程遠い。操縦技術に関して右に出るものはいなかったが、愛機のイングラムの関節に使われるLinear actuatorのことすらよく理解できていない。power boosterとfixed wingを付け加えれば、レイバーが自由に飛べる等と想像するくらいだった」
霞み始めた視界の中、遊馬は懐かしいことを思い出したように口元を上げた。なのに目だけは笑っていない。唇に浮かべたその笑みは逆に表情を悲しがっているように見せた。
「ましてや自分が担当する1号機を今まで飼ってたペットと共通の名前に命名し、その名前を機体に刻み、その警察用レイバーに傷がつくことへ長い間抵抗を示し、新型機種の導入へ頑なに反対した。その愛機の退役を愛犬の死に例えるなどした、そんな野明は、決して機械フェチって言葉で片付けていいレベルじゃない」
親指がその力を緩めぬまま、首に浮かび上がる血管の筋をなぞり上げた。けれどそこに情欲と呼べるものは存在しない。情欲などあるわけがない。女性への愛撫というより、神父がミサの時、聖餐でイエスの血と肉の代わりとなるパンに触れるのに近い感じだ。
「野明が高校時代にインターハイで卓球の3位を取ったこと①、野明の結婚披露宴に出席するまでちっとも知らなかった。二課にいた頃は、中学時代にバスケやったことある、としか聞いてなかったけど、披露宴では、野明が弱小といわれた苫小牧中学校バスケ部を道大会優勝まで導く快挙を成し遂げたと聞いた①。しかし悲願の全国大会出場を果たしたものの初戦敗退、155センチで止まった身長が仇になって、ついにバスケで行き詰まった。高一の時は頼まれて卓球部に入ったんだろ? たった一年の訓練でインターハイ3位取ったのに、その後事故で骨折し、それを契機に大学受験の準備を始めた。あの頃はちょうど政府がバビロンプロジェクトを起動したため、首都圏でレイバーが一気に増えた。そして、1996年には大検を受けにお前が上京した。②何がきっかけが分からねぇけど、そん時『レイバーが好き!』って理由で警察学校を受験したよな。なぁ、野明、Symbioseって知ってる?」。
息が苦しい……頭が麻痺してきた。…遊馬が何か聞いたようだったけど、揺らめく意識の中でに答えを出せようはずもなかった。
「Symbiose、元はフランス語で『共生』って意味なんだ。人間が自分以外の事物と共通の生命をもつとする発想。 呪術や宗教の発生を基礎づける観念ともみなされる。つまり野明と『アルフォンス』のことじゃねぇか」
…アル…アルフォンス……? 今、アルフォンスの、ことを…言っているのか……?
「『人機一体』、『人体の延長』とされる機械、一人乗りの高機動性作戦ユニットの操縦担当であれば、おそらく誰もが一度は夢見たことのある操縦テクニックの最高の境地――。しかし、それを実現した野明とアルフォンスは微妙に違ってた。人機一体、人機一体と口で言う操縦者たちは、性能や安全性が現機種を凌駕すると検証された新機種に乗り換えられる時には、いとも簡単に時代遅れの愛機を見捨てるのが普通だろう。当たり前のことだ。所詮ただの道具だ。しかし野明は最初からそれを受け入れられなかった」
頭はシートのヘッドレストとのぶつかりを繰り返す。どうやら体は酸欠の生理反応で痙攣しているようだ。
「何より、動作をオート処理できるOSはほとんどの操縦者にとって便利なものだ。操縦技術が秀でた五味丘さんも、ゼロ入手後は暫く、そのニューロンネットワークシステムに感動していた。イングラムに乗り慣れた太田さえも、イングラム量産機計画AVS-98mkIIのテストで運動アルゴリズム機械学習システムに満足していた。しかし野明は、そのようなシステムを決して受け入れることができなかった。
その理由は二課時代の俺にも分かってた。愛機との間に異物が入るのがいやなんだろ? なぁ、野明」
降り注ぐ遊馬の声色は、記憶の中のいずれとも違っていて、慈愛と呼べるほどに優しいものだった。
「野明のレイバーへの愛着、アルフォンスへの愛着は、それを道具や野明の言う子供と見なす以前に、野明にとってはまず自分自身の肉体の補充であり、体の一部なんだろ?自分でも筋肉と例えるぐらいにねぇ。中学時代頑張ったバスケも身長のために断念し、高校時代の卓球も体の負傷で終止符を打った。そうやって肉体に対する不信感が、無意識のうちに野明の中で蓄積されたんだなぁ。そしてどうしようもなく大検のため上京した時、自分の目で初めて首都圏ですでに数多く稼働しているレイバーを見た。幼い頃に大好きな『マ○ンガーZ』③や『○ンダム』④を連想し、熱くなったと同時に、二足歩行の有人操縦機体はまるで『人体の延長』のようで、彼らと共通の命を持っているというSymbioseのイメージを喚起したんだ。野明に今まで何度も何度も恨みを抱かせ、夢を諦めさせた肉体の不足は、特車二課第2小隊のイングラム一号機に乗った瞬間にようやく満ち足りた。だから『アルフォンス』になったんだよな――その『人体の延長』に対する愛情は、母親とまだ自意識のない赤ん坊との間にあるもので、その感情も、飼い主の犬や猫への愛情と似てるからだ」
頭部とヘッドレストのぶつかりが弱まり、身体の痙攣も少しずつ和らいできたが、それと引き換えに恐怖に呑まれそうになった。口を限界まで開いていてもなお息が上手くできず、目も焦点を失い始め、眼球は充血しているに違いない。それでも耳元で遊馬の声色は変わらない。
「――イングラム一号機にアルフォンスという愛称を与えた野明は、その呼称を通して無意識に半永久的な自我の外延を求めてたんだろ。だけど特車二課第2小隊という警察組織の備品であり、公共財でもあるアルフォンス、所詮は野明の犬や猫、子供になれず、野明の体の一部にもなれない。俺たちが命がけで警察官としての信念のためTOKYO WARに出た後、俺が前から危惧した通り、野明はもうレイバー搭乗資格を取り消され、二度とレイバーに乗れなくなった。――それが原因だろ? だから、あん時、男に目が行ったんだろ?」
……おと…こ? …ああ、あの人……私を本当に愛してくれたあの人、躊躇いなく抱きしめてくれたあの人……結婚したら泉酒店を継ぐため婿入りしてもらうという提案に、ただの一度たりと不満を示さなかったあの人……嘘でも構わない、同級生の頃からずっと私のことが好きだったって教えてくれたあの人……
…二課での遊馬との「おままごと」が私の精神に焼き付いていることに気づいていながら、黙っていてくれたあの人……
息はぎりぎりで荒く、下半身までがそれに合わせて、小刻みに締まっていく。
「SymbioseはSymbolic Relationship――共生関係になった。相手と自我の限界が曖昧になるほどの強い共依存的な関係は、伴侶の間であれば珍しくもない。言われてみれば、TOKYO WAR以前は職務の中で無自覚にアルフォンスの疑似両親を演じてた……いや……ずっと、疑似伴侶を演じてきた俺たちこそ、実はそういう関系の真ん中にいたんだ。残念なことに、野明に合わせてた相手は三年後に事故で死んじまった。その時から野明は、『同じところに死に逝く』と自分を説得してたようだが、それは心の穴を一時的に埋めたいだけだ」
口の中には唾液が溢れ、半開きになった口元からぽたぽたと流れ落ちていた。夜なのに目の前に映った遊馬の顔は異様な程に明るかった。瞳孔が開いているのだろう。
…あっ、んあ……いくっ…、…もう、いクぅ…っ!
「――だって、あの自己説得が本当に効くなら、最初にアルフォンスという名前の犬が死んだ時に、野明は満足してたはずだ。でももう大丈夫、俺が、野明を、本当に、楽にしてあげる…!」

「……あ、んあ、あっ、ああああ、ああ——っ! !」
もう遊馬が何を言ってるのかまったくわからない。頭の中で名付けようもない快感が花火のよう
に炸裂している。頭から爪先までぞくぞくする戦慄が走り抜け、体中の筋肉が痙攣し、肌は粟立
った。陸に打ち上げられた魚のように背がのけぞり腰が、その中に意志の介入はなかった。
気持ちいい、気持ち、いいっ! 下半身のあそこまで息をするようにパクパクと開閉し、ただでさえ疼く腹の底に熱が燻り、汁がびしょびしょに小陰唇から出てしまった。
間近で視界一面を占めていた遊馬は笑った。幻のように優しくて、まるで恋人と向かい合っているような笑みだった。
「すごいだろ野明! 野明の内臓も気持ちいいだろ? 俺たちが現役の頃に習った柔道の絞め技と同じ原理で、おタケさんが何度も何度も注意したんだろ? 失神を起こしやすいという点がより注目されていたんだが。上手くやれば首の動脈を絞めることで、頸動脈反射による副作用が脳内の血流を低下させ、二酸化炭素が蓄積することによってβ-エンドルフィンの分泌を促すことができるぜ。脳内麻薬と呼ばれ、モルヒネと同じような効果を持つこの物質が、今、野明の下垂体からドビュドビュ、分泌されているんだよ。うれしいだろ——」
酩酊感が脳から全身に広がり、体が溶けていく。視覚に及ぶ全てのものは回転していた。遊馬の、私の首を絞めている技術者の血筋を感じさせる長い指も私の体に溶け込んでくるかのような感覚。いや、ちがう、ちがうのに、お互い正気に戻ればただの赤の他人なのにっ!! ——でも、このままじゃ……、
「こんな快楽今まで味わったこともないだろ? 訳分かんなくなっただろ? 狂ってしまいそうなんだろ? 頭がイかれたんだろ? いいんだよ、狂ってしまいな。狂うと気持ちいいだろ? かわいいよ野明――野明のこの姿がずっと見たかったんだ。野明が東京に帰ってきてからずっとこれが見たかったんだ! 今分かった? 野明!! お前も本当はこれが欲しかったんだろ?! ヒャハハハハハ、イケ! イケ!」
「はあっ、んんあ、ああっああ、んああ、っ! !~~~」
遊馬の片膝が私の足の間に入り込んで、まっすぐにクリトリスめがけてのしかかった。残っていた僅かな理性が頭の奥で叫ぶが、下腹部から快感が波のように脳裏に押し寄せ、悲鳴は口から出た瞬間嬌声へと変わった。だらしなく弛んでる口許から涎がだらだら溢れ、顎までも濡らした。
「ひぁははっ、いいぞ野明、いい顔だ! もうお前は俺から離れられない、脳味噌だけでイクんだ野明あ!」
首を締める手にさらに力が入り、私の股間と座席の間を遊馬の太ももがすり抜け、遊馬の下腹部は私のあそこにぴったりとくっつき、毛穴の隅々まで遊馬の息が吹き込んでくるような感覚に包まれた。
「死ねええ、お前を殺してしまったら、俺も死ぬから—— どうせ俺もお前も、もうやり残すことはねぇだろ? 最後野明に見せてやろう、究極のSymbiose、これが本当の快楽というものだ!」
遊馬の鼻先とあたしの鼻先が触れ合い、
「これで野明の快楽も、苦痛も、全部俺が——」

膣口の外側にさっきの膝とは違う硬さと熱が当たって、感電したような強烈な快感とともに全身を駆け巡るのは、骨の髄までしみこむような悪寒だ。
——それは、勃起した性器だった。
溺れかけた者が激流の中で岩場を摑んだように、理性はようやく意識の水面から顔を出る。
——遊馬じゃない。目の前の人が遊馬だなんて、認めるわけがない! !
自分が一瞬で穢れた感じがした。近道を使ってようやく辿り着いたコンサート会場、遊馬の遅刻で待つしかない自分、vwタイプ2に乗って遊馬にキスされた夢をみた自分、銀座のレストランで遊馬に死後のことを聞く自分、涙一つなく、微笑んで遊馬に別れを告げる自分、かつて遊馬のことを思った純粋な恋心が、すべて今目の前の勃起したモノに穢されたような気分——
遊馬はあたしに反応しないはず。どう足掻いても遊馬とは一緒になれないと、ずっと思ってきたのに……!

かえせ、あたしのバックアップをかえせ、結婚式の挨拶で照れ笑いする篠原遊馬をかえせ、あたしが十九歳の時に初めて乗った、おろしたての匂いがするアルフォンスをかえせ、イングラムのヘルメットをかえせ、アルフォンスを仰ぎ見るかなしいあたしの顔かえせ——
お父ちゃん、どうか生きかえって。もう一度あたしを育てて下さい。あたしはもう、やり直しができないよ。夢の中で、あたしは何度も故郷へ帰ってきた。そして帰ってくるたび、あたしはアルフォンスを埋めたあの大きな木が生えてる丘の上を彷徨っていた、進まない時間の中を一人彷徨っていた。そして、そこにある木も草の葉も、夕陽も風の音も、土の中に埋もれた「アルフォンス」も口を揃えて私に言った——
恋なんかを覚えるんじゃなかった、女として生きるんじゃなかった!

喉の最後の息から、力を振り絞ってやっと言葉を声に乗せた。
「──いやだ! !
気持ち悪いぃ——!」

音と光、匂いと感触がぴたりと止まった。
目の前にはがらんどうの暗闇しかなくなった。すべてがあるけど、部分がない、とろりとした気持ちの悪い闇だった。


①『機動警察パトレイバー・劇場版 -ゆうきまさみの新しい世界』、ゆうき先生のイラスト解説より
②『機動警察パトレイバー 完全設定資料集 vol.2-OVA編-』、ゆうき先生の「野明の生い立ちの記」より
③アーリーデイズ(初期OVA)第1話、野明のセリフ「喰らえ、正義の鉄拳、ロケットパンチ!!」より
④on television(テレビ版)第15話、野明のセリフ「深夜映画がゴンダムをやっててさ、懐かしくてついに観ちゃった、あれってあたしが小学生の時……」より


(七)


ふっと目を開けた。

遊馬のビジネス・プライベート兼用のBMW X5は、私のアパートのすぐ近くの駐車場に停まっていた。
助手席の背もたれから身を起こし、目を回転させて運転席を見ると、遊馬はハンドルに頭を突っ伏し、片方の腕を額の下に当て、もう片方の手で口を押さえ、疲れた様子だった。
手が無意識のうちに首に触れると、どうやらマフラーはきちんと巻かれていた。助手席の窓についた結露を拭き、マフラーを引き下げて、窓ガラスに映る首元をまじまじと眺めた。両側の肌が僅かに赤みを帯びたような気がするけど、多分私の気のせいだと思う。
気配に気づいたのか、隣の遊馬がハンドルから身を起こした。
「やっと目が覚めたか」
遊馬は私の顔をちらりと見て、「野明はぐっすり眠ってたぞ。俺も車の運転で疲れたから、起こさずにちょっとそのまま寝てた」と言った。
「私、どれくらい眠ったの?」
ハンドルにかけた左手首の腕時計を見下ろした。
「車を停めてから、一時間半か」
「一時間半…」
エアコンの効いた車内は暖かい、はず。結露がすごい車窓もそれを証明してるみたい。にもかかわらず、助手席の吹き出し口から出る温かい風に吹かれながらも、体は悪寒に覆われ、冷え切っていた。
遊馬はさほど寒くなさそうだった。後部座席に放り投げられてた、彼の首に巻いていたはずのマフラーに目をやった。
「何だか、遊馬に気を使わせたのかな?」
「何を今さら。今まで散々気を遣わせたのは誰だか」
「は、はは…」
私は頑張って笑みを作ろうとしたが、自分でも分かるぐらい不格好なものになってしまった。
「さすがに時間も時間だから、もう帰るよ。遊馬も帰り、気をつけてね」
軽く頭を下げ、寄りかかってた左手でドアを押し開けた。

外から流れ込んでくる新鮮な冷気が、逆に体のあちこちの小さな震えを止めてくれた。ふと顔をしかめる。脳の錯覚なのか?…車内にはさっきからずっと、生臭い臭いが漂っていたことに気づいたような気がした──それは北海道の農家や牧場でよく出会す、同じ畜舎に閉じ込められた発情期のオスとメス特有の、鼻を覆うような悪臭である。もしそうだとしたら、今まで寒気を引き起こしていたのは温度ではなく、この臭いのせいかも。

車から降りようとしたところで右手首をつかまれ、驚いて振り返る。
「本当に苦労させたと思うなら、駐車料金ぐらい払ってくれ。さすがに田園調布、安くはないぞ」
遊馬は私の腕に視線を落とした。
「野明って明後日、空いてるよな。仕事終わったらさぁ、飯奢れよ。野明んちの事務所の下まで迎えに行くから」
「……そんな言い訳作らなくてもいいのに。何を今さら、水臭いよ」と私も目を伏せた。
遊馬は私の腕をさらに強く握った。二人とも目を上げないまま「じゃあ、明後日に、な」と遊馬が言った。
「うん」私はうなずいた。
遊馬がゆっくりと指の力を緩めたと感じ、私は掴まれた手を引き抜いた。

遊馬のX5を降りて、住所へと向かった。駐車場を出てしばらくすると、背後でエンジン音と車が走り去る音がした。私は振り返らなかった。
背後から颯々とした風音が聞こえてくる。遠く高い空の果てから、薄い霜を渡る冷たい風の響きが悲しげにこちらに向かって走ってきて、耳元を過ぎた。春の海原に永く永く離れても尚、その風に一抹の青臭い湿気が幻のように混じっていた。風で乱れた髪を押さえると、指先が水気を帯びた冷たさに触れた。

立ち止まり空を見上げると、鉛の空から細い線のような雪が降りてくる。雪はみるみる白い欠片となって、音もなく地面に積もり始めた。大地を覆い始めた雪は、私の肩にも白い塊を落とし静かに重なっていく。
手を合わせて息を吐くと、指の隙間から白い霧が立ち上った。雪が降るのを、ずっと、待っていたような気がした。

私は再び歩きだし、家へ向かう雪道を進んでいった。
残された足跡がこれから静かに積もる雪に消されるように、撰び執る宿命も、閉じた途の先も、永すぎた時間の渦巻く混沌に流されて消えていく。絶望の底で掻き毟る喉から滲む血の色でさえ、誰も忘れてしまうだろう。ただ——
——遊馬と私は、もう生きてるうちに別離が叶わないかもしれない。
わけもなく、何か大事なことを思い出したような、そんな予言が私の脳内に浮かんだ。予言というより、蓄積した記憶から生まれた直感のようなものだ。
三十年前であれば、二人抱き合って、アルフォンスと共に東京湾の海底に堕ちる可能性もあったかもしれない。でも今となってはもう考えられない。常識的な哀しい大人に変わってしまった私たちは、毎日を当たり前のように生きて、ただ肩を寄せ合い、荒涼とした大地にある沼へと歩いていくしかないのだ。そこは虚空なる沼。深い水の底へ沈んでいくだけの運命。十年、二十年、三十年と時が流れ、いずれどちらかが完全に沈みきり死を迎えるその時も、常識という枷に捉えられた心は、もう互いに手を差し伸べることもできない。どこまでいっても私たちは赤の他人に過ぎなくて、決してお互いを捕えまる日などこないのだろう。

——それでも私は、この雪風が私の未来に向かって吹いていることを確信している。私の目の前にある道はもう人生の帰り道(しにゆくみち) しか存在しない。私の歩いている道はもう人生の帰り道(しにゆくみち) でしかならない。それでも私は、確かにここに立っている。確かに今を生きている。
そして、私の「未来」となった北海道苫小牧のお墓に向かって、一歩、また一歩とゆっくりと歩いていく。




――後藤喜一が浜の町で営む寿司屋を、篠原遊馬が訪れたのはその夜の三ヶ月後のことである。


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書いてる時の脳内BGMは鈴湯さんの『久遠の繭』でした。
「棄て置かれて、戻る故郷(ばしょ)もない
どこへ——
解けた糸から全て溢れてしまう
命尽きるよう
罅割れた殻から生まれ出でた
異形のモノでさえも深く愛し続け
やがて朽ちる 深淵はもう開かない」

あくまでも『寿司屋の後藤』の世界と向き合うために、伊藤先生の設定を全肯定した上で、そのlogic chainにある不条理かつ曖昧な部分を自己解釈で埋めて論理的に一致させようと書いた捏造ものでございます。
初出:2021/11/07 weiboにての中国語版。←それも大いに不評でした。
ですから、読者の皆さんに「気持ち悪い」、「意味不明」などと思われることが少なくないだろうと、重々承知致しております。
ですが、それは中国人の感覚が違うからなどではなく、筆者である私がキチガイなだけでございます。

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